何かを取りにベランダに出たのか、突然、ドロシーが、「げっ、げげーべん。結構寒いです。」といいながら、部屋に入ってきた。
笑ったら、「えっ、げげーべんって言わない?」とドロシー。君さぁ~、最近の人は、あまり言わないと思うよ。
この話をmixiに書いたら、みんな、「そんな言葉は聞いたこともない」という。おかしいなぁ。以前は言ったよ。「げげーべん」とか「何をタクラマカン砂漠」とか。英語で言えば、"See you later, alligator"とか。
(2006年2月19日, mixi 改)
何かを取りにベランダに出たのか、突然、ドロシーが、「げっ、げげーべん。結構寒いです。」といいながら、部屋に入ってきた。
笑ったら、「えっ、げげーべんって言わない?」とドロシー。君さぁ~、最近の人は、あまり言わないと思うよ。
この話をmixiに書いたら、みんな、「そんな言葉は聞いたこともない」という。おかしいなぁ。以前は言ったよ。「げげーべん」とか「何をタクラマカン砂漠」とか。英語で言えば、"See you later, alligator"とか。
(2006年2月19日, mixi 改)
amazonで衝動買いをしてしまった「答えのない質問 DVD-BOX(初回限定版) 」(*1)。日々節約に情熱を燃やし精進を続けるドロシーになんと説明しよう。
(*1)¥17,955 (税込)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000BR2M3A/
「そんなに高くなかったよ」って言ってみる? いや、いくらドロシーでも箱入りでDVDが6枚も入っていたら高そうって思うだろう。昨日も節電自慢を嬉々としてしてたしなぁ。
ううう、心が痛む。取り消そうかなぁ。でも、ずーーと、高校生の頃から欲しかったからな。あああ、この物欲、取り消せない。「英語の勉強」って言ってみようか?でも買ったという事実は消せないし。 「君にも役に立つと思ってさ」と言ってみる?いや、彼女はこんな理屈っぽい話は嫌いなんだ。ああ、荷物の受け取りを会社にしとけばよかったかな?でも会社に私物の荷物ってのもなんだし。
Satoru曰く、
「ははは。ご愁傷様です。こういう家のためには、"宅急便さりげなく配達サービス"ですね。ご主人の携帯電話に連絡して、近所の公園で受け渡しますとか、一枚一枚にわけて、毎月一枚ずつ送るようにしますとか。」
っち、面白いじゃないか。
「旦那、例の物」と覆面の男。「あ、ああ。」とあたりを見渡す私。公園のブランコの向こうに夕闇に浮かぶ高層マンションが見える。
ああ、妄想が膨らむ。
mac曰く、
「ご依頼の荷物、本日の立川行き最終電車内でのお届けとなります。3両目の2番目のトビラ近辺にお立ちください。なお、お届けの関係上、かばんを網棚に置くことをお忘れないよう、よろしくおねがいします。」とかメールが来ちゃったりして、
まったく。
本の方は、高校生の頃に、古本屋で買った。それなりの値段がしていたような気がする。
目次
「第3章 音楽的意味論 II」の、「ベートーヴェンの<<田園>>交響曲を外部的で非音楽的なあらゆる隠喩から分離させて、純粋音楽としてきくことが可能だろうか?」という問い、「第4章曖昧さのよろこびと危険」でのベートーヴェン、シューマン、ショパン、ベルリオーズ、ワーグナー、そしてドビュッシー<<牧神の午後への前奏曲>>」へと続く曖昧さの量的変化の系譜。
ああ、なんて理屈っぽいんだ。持っている中でも好きな本・大事にしている本の筆頭。
大体、タイトルがいいよ。"The Unanswerd Question" ものすごく20世紀的な感じがする。
(2006年2月16日, mixi 改)
`Would you tell me, please, which way I ought to go from here?'
`That depends a good deal on where you want to get to,' said the Cat.
`I don't much care where--' said Alice.
`Then it doesn't matter which way you go,' said the Cat.
`--so long as I get SOMEWHERE,' Alice added as an explanation.
`Oh, you're sure to do that,' said the Cat,
`if you only walk long enough.'
(Lewis Carroll, ALICE'S ADVENTURES IN WONDERLAND)
なんて素敵なやり取りなんだ。
そうさ、会社で、ロードマップに関わる仕事にかかわっていると、ときどきチェシャ猫の気持ちになる。
ロードマップに関する研究をしているケンブリッジ大のPhaal博士(*1)は、にこやかに笑いながらこんな風に言う。
「ロードマップはコミュニケーション・ツールです。行為としてのロードマップ、すなわちロードマッピングがもっとも大事なのです。そしてロードマッピングとは、結局、次の3つについて関係者の意識を共有することです。
それは、
・Whare are we now?
・Where we want to go?
そして
・How we get there? です。」(超訳)
休憩時間に未来工学研究所のR&D戦略センター長の上野さんと話をした。
上野さん曰く、
「3つの中で本当に難しいのは、いまどこにいるか、ということですよ。それがなかなかきちんと言えない。どこに行くとか、どうやって行くとかは、どこにいるかがわかっていればそんなに難しくはない。新幹線で大阪にと言ったって、もしかして奄美大島にいるかもしれない。どこにいるかということをきちんと考えること、これが大切なのです。」
確かにその通りだ。
`All right,' said the Cat;
and this time it vanished quite slowly,
beginning with the end of the tail,
and ending with the grin,
which remained some time after the rest of it had gone.
(Lewis Carroll, ALICE'S ADVENTURES IN WONDERLAND)
(2006年2月8, 11日, mixi 改)
(*1) http://www.ifm.eng.cam.ac.uk/people/rp108/
SF(Science Fiction, 空想科学小説)は、子供の頃から好きだった。高校の東洋史の時間は全部、早川書房「世界SF全集」(*1,2)にあてていたし、5・6時限が生物や地学だったりすると、自主休講にして近所の図書館にSFマガジンを読みにいったりした。
今から考えると、東洋史や生物や地学も面白かったろうにと思う。「世界SF全集」もぜんぶを通読したつもりでいたけれど、改めてタイトルを見直してみると、まったく記憶にないものもある。『フランケンシュタイン、すなわち現代のプロメシュース』も、この全集で読んだとばかり思っていたけれど、どうも記憶違いのようだ。まぁ、高校生の頃の記憶なんてそんなもんだ。自分では昨日のことのように思っているが、30年以上も前の話だ。
SFを最後に読んだのは、何年か前にピュアなファンよりは大分遅れて読んだダン・シモンズの「ハイペリオン」シリーズの単行本かもしれない。以前は、本屋でも必ず早川文庫のコーナーの前をうろうろしたのだけど、いまではちらっと眺めるだけになってしまった。
あたりまえだけど、本にしても映画にしても、相性や出会いがある。最初に読んだ筒井康隆はどうにも納得がいかなかったが、後に「馬の首風雲録」が好きになったりする。「霊長類南へ」や「虚航船団」も気に入っていた。細かい部分は筒井康隆に限らず、みんな忘れてしまったなぁ。
世界SF全集は、置いていない図書館もままあるので、それはちょっと残念だ。世界SF全集は、なんというか、自分の中のSFに関するベースラインになっていて、べき論じゃなくて、もっと大切な座標軸という気がする。
だから、私の「勝手に図書館採点基準」には、「世界SF全集が置いてある」が入っている。置いていないと、こっそりとがっかりする。「ああ、あそこに行けば、世界SF全集があるんだ」と思えないのが、ちょっと寂しいのだ。
そういうのを郷愁というのかもしれない。
『For old Pete I've built a "cat bathroom" to use in bad weather - automatic, self-replenishing, sanitary, and odorless. However, Pete, being a proper cat, prefers to go outdoors, and he has never given up his conviction that if you just try all the doors one of them is bound to be the Door into Summer. You know, I think he is right.』 (THE DOOR INTO SUMMER, Robert A. Heinlein, 1957)
子供はもう少し大きくなったら、SFを好きになるだろうか? いまのところはラノベ路線まっしぐらだ。まぁSFなんて、ある種の妄想かもしれないから同じようなものか。
(2006年2月4日, mixi 改)
(*1)世界SF全集(1~26)(早川書房) http://www.asahi-net.or.jp/~KC2H-MSM/pbsb/booksf04.htm
(*2)世界SF全集(27~35)(早川書房) http://www.asahi-net.or.jp/~KC2H-MSM/pbsb/booksf05.htm
子供の頃は、長いタイトルの本や、長いタイトルが付けられた章というものになぜか違和感を感じていた。なんだか物語を簡潔に表現していないような気がしてたんじゃないかと思う。
それがいつの頃だろう。長い表題というもの自体、別に嫌ではなくなった。むしろ、長い表題自体に、"本当には語りつくせない物語"が内包されているような気さえする。
たとえば、『愛のかたち』(*1)という短編集に収録されているグロリア・サワイの『私がイエス様とポーチに座っていると風が吹いてキモノの胸元が開き、イエス様が私の乳房をご覧になった日のこと』。
タイトルに限らず、美しさのひとつの基準は非可換であること。他の何者にも置き換えられない唯一性があること。この短編とタイトルには、それがあると思う。
あるいは、ピノキオの章のタイトル(*2):
『How it happened that Mastro Cherry, carpenter, found a piece of wood that wept and laughed like a child』
『Fire Eater gives Pinocchio five gold pieces for his father, Geppetto; but the Marionette meets a Fox and a Cat and follows them』。
子供の頃にはまったく理解できなかったこの冗長性に、もしかしたら世の中を表現する何か、美しさと呼んでもよいと思うのだけれど、があるんじゃないかと思う。
『兵士シュベイクの冒険』も、確かそれぞれの章に付けられたタイトルは長かったよなぁと思う。残念なことに、Webで検索してみるが確認はできなかった。
(2006年1月25日, mixi 改)
(*1) 『愛のかたち』 ISBN 4000261428
(*2) http://www.classicreader.com/booktoc.php/sid.3/bookid.129/
mixiなどのSNSを使うようになって困ることは、観たい映画、読みたい本、読み返したい本がやたら増えてしまうことだ。対処法としてやっているのがVR積読。
観たい映画、読みたい本、読み返したい本、なんでもかんでも、どんどんAmazonのショッピングカートに放り込んでしまうんだ。
この方法のよい点は、
1) いつでも、思いついたときに衝動的に実行可能
2) 衝動的にできるから、衝動買いの欲求も満足
3) いつでもリアルに買えるのさ、と思わせるリアリティ
4) 注文合計金額を見て、理性が機能
5) リアルな本屋でも、VR注文残のあの本この本が意識に上って購入に歯止め
6) リアル積読は積んだ瞬間に記憶がなくなり、同じ本も買ってしまう。VR積読ではそんなことは皆無
聞いてみると、やっている人は結構多い。
未来の自分の読書リストをバーチャルに作る。そうか、これはフューチャー・ライフ・ログなのか。
(2005年1月23日, mixi 改)
今から21年前に受講した結婚講座全4回。第1回は『愛について』、第2回は『夫婦として』、第3回は『育児』、第4回は『現代社会に生きる』といった風な硬い題材。教会で結婚式をさせてもらうための前提条件だった。
ドロシーが、「わたし、教会で結婚式を挙げ、歌を歌う」と言い出したものだから、東京中の教会に電話をした。プロテスタント系の教会では、「信者さんでないと・・・」と断られ、カトリック系の教会では、「プロトコル(式次第)にないから無理」と断られた。もしカトリック本郷教会の関戸神父が、「うん、いいよ。僕はクラシック音楽は好きだからさ」と言ってくれなかったら、教会での結婚式は難しかったと思う。その関戸神父の条件の一つが結婚講座だった。
結婚講座は目白の東京カテドラルで行われた。毎週日曜日に何回も行かなければならないのは、少し気が重かった。しかも、初回のテーマは「愛について」だ。"お説教を長々とされたらかなわないな"と、不謹慎にも思っていた。
しかし、実際は違ったんだ。記憶はやや曖昧だが、こんな感じだ。
第1回:愛について
若手落語家のような話し方をする軽いのりの神父さんが登場。曰く、 『まぁ、ひとりより2人ってことですな。私なんか、ほら、結婚しないことになっているから。一人で家に帰ってつける裸電球、あれは侘しいですよぉ~。みなさんはこれから結婚するから、幸せ一杯にお互いに見つめあったりして、"好き"とかおっしゃってるんでしょうけれど、私からすればね、相方がいて、顔がついてれば、もうそれだけで羨ましい。』
第2回:夫婦として
慈恵医大の先生登場。曰く、『人為的な避妊は認められていません。自然が一番よい。しかし、現代社会にいる我々はそうも言っていられないかもしれない。もちろん、いわずもがなだが、常に手はきちんと洗うこと。膀胱炎の原因となる。タイミングに関する正確さでは触診法がよい。慣れてくると正確に状態を把握できる。』 専門的な記述を含む小冊子が配られ、ホワイトボードを用いながらの図解説明。正直にいうと腰が抜けるほど驚いた。
第3回:育児
私は6人の子を育てましたというおばさん登場。曰く、『1人目はいろいろわからなかった。2人目はちょっと反省。3人目は、ほっておいたら大きくなってた感じ。後はあんまり覚えてないわ。結局、なにもしなかった6人目が、一番いい子に育ったかしら。』
第4回:現代社会にいきる
家庭裁判所・離婚専門調停員のかたが登場。曰く、『教会としては認めていませんが、現代社会に生きるわれわれにはそれぞれいろいろな事情もおきます。いざというときは、私まで連絡を。』
いずれもそれなりに現実的で、まったくお説教くさくない。今考えてもまっとうな話ばかりだ。 『ああ、賢いなぁ。さすが2000年の歴史』と強く印象に残った。
それから何年かしてカリフォルニアのサンタバーバラのサンタバーバラ・ミッション(伝道所)をみたときにも、「ああ、ミッションとはこういうことなんだろうな」と、結婚講座のことを思い出しながら考えた。
私たちが結婚式を挙げたのは、改装前の本郷教会。改装前、当時は入り口にはスノコがあるような古風な教会だった。 http://tokyo.catholic.jp/text/shokyoku/hongo.htm
(2005年12月30日, mixi 改)
お願いだから、納豆には砂糖を入れないで! あああ、頼むから、『砂糖の入った納豆っておいしいよね』って、子供に繰り返し同意を求めるのをやめて! お正月に、おじいちゃん、おばーちゃん、おばさん、カミさん、みんなで楽しそうに砂糖入り納豆を食べないで。。。
私、 「納豆に砂糖は邪道だろう。」
子供、 「いや、なんというか、ええと、ちがうよ。おいしいもん。」
私、 「ゲロゲロ。」
子供、 「タマタマ。」
初めてドーキンスのミームの話を聞いたときの印象は、"げ、トンデモ?"というものだった。いまでも「何でもミーム」みたいに言われると、ちょっと困惑する。
"ある特定の現象を包括的に記述するために導入した抽象的な概念としてのもの"程度に言ってくれるんだったらそれなりの納得感もあるのだけれど、この手のことは、まま未定義のまま拡張・拡大されて用いられてしまうから。
ただ、みんながこの言葉が気になるのもわかるんだよな。身近に、『お煎餅を吸いながら食べるという家族』や『納豆に砂糖を入れるという家族』の強い世代間伝達力を目撃すると、『むむむ、ミーム、侮りがたし』と言いたくなるもの。
『早川家・ダイニング テーブルに基子の為の食事の用意。その向こうのリビングでは、梅子が煎餅を吸いつつ(なぜかと言うと、クズが散乱するのが嫌だから)食べながら、テレビを見ている』(木皿泉/山田あかね『すいか』p45)
ほら、ここにもいる、お煎餅やクッキーを食べるときのテーブルマナーは『吸いながら』という家族が。
うちのカミさんは、彼女のおばあちゃんにそう言われたって主張している。いまでも、『ああ、また吸ってしまった・・・』とぶつぶつ言いながらクッキーを食べる。 しかもこれ、伝染するんだ。この前も、クッキーを何気なく吸いながら食べている自分を発見して動揺したところだ。
いずれにせよ、納豆に砂糖は入れないでください。頼むから・・・・と、カミさんの実家で一人納豆を別に出されてしまう悲しい私がそこにいる。
(2005年12月24, 17日, mixi 改)
「新しき冷蔵庫よろこぶ春の君かな」
10年越しでカミさんがほしがっていた冷蔵庫を春のボーナスで買ったときに作った俳句だ。カミさんに、「君のことだよ」というと、妙に喜んでくれた。
俳句が好きだ。学生の頃、塾で国語を教えていたときに、「面白いな」と思ったのがきっかけだ。私が子供達に国語を教えるなんて、今思うとずいぶんな話だったなと思う。
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ある日、突然、友人から携帯のメールに俳句が送られてきた。
俳句が好きだといっても、これまでは俳句という作品を読むだけだった。けれど、人はある程度歳をとると厚かましさにも磨きがかかるんだ。交換日記ならぬ、携帯交換俳句を始めてしまう。冒頭の俳句もそんな交換携帯俳句のひとつだ。
交換携帯俳句は面白い。
携帯という媒体は交換俳句に最適なコミュニケーションのツールなんだ。どこでも書ける、送れる、推敲できる、しかも、俳句自体はとても短い。
そして携帯俳句は、俳句が極めて私的なコミュニケーションツールであることを思い出させてくれる。俳句自体の出来なんて実はどうでもよいのだ。なぜなら、俳句自体が極めて私的なコミュニケーションツールだから。共有した時間、思い出、ちょっとした感覚を、送った相手と共有することができるれば、それでオーケーなのだ。冒頭の俳句も、送った相手もカミさんをよく知っているからこそ、ニヤリとできて意味がある。
そして携帯俳句は、普遍性なんて実はどうだっていいということも思い出させてくれる。それは今の世の中で結構大切なことだと思う。
(2005年12月07日 mixi 改)
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